焼津と鰹の歴史はたいへん古く、今から約1400年前の弥生時代にまでさかのぼります。それは焼津神社周辺の「宮の腰遺跡」から発掘された遺物に端を発しています。この遺跡から土器類や剣・鏡・勾玉などの土製模造品、米などの食糧品に混って魚の骨片が出土。そして、その骨片は古考学者の鑑定によって”かつお”の骨であることが分かりました。その当時、焼津一帯の集落の人々が米食をし、鰹を獲って食べていたことが証明されたのです。このことからも焼津は、大昔から”かつお”と切っても切れない縁の深い町であることがうかがえます。現在、焼津は全国でも有数の鰹節の生産地として知られるようになりました。そもそも焼津地区は遠洋漁業の焼津港、近海・沿海漁業の小川港があり、両港で水揚げ量では全国1・2位を占め、特に鰹の水揚げ量は年間約15万㌧で、全国水揚げ量の40%以上を占め、全国一を誇っています。立地条件においても関東と関西の中間に位置しており、水産加工業も発展し、圏内唯一の総合水産都市を形成しています。その中に焼津の鰹節産業は大きく発展を遂げてきました。
現在一般に使われている”かつおぶし”という名称は、戦国時代から江戸時代初期の間に堅魚から変わったものと思われます。しかし、当時の鰹節は現在の鰹節とは相当なへだたりがあったようです。その後、延宝2年(1704年)に紀州(和歌山県)の漁師である甚太郎があみだした「燻乾法」が、現在の鰹節という言葉の起源と言い伝えられています。焼津においては徳川三代将軍家光時代の、当地方の田中城主(藤枝市にあった)松平伊賀守忠晴が遺した古文書、寛永19年(1642年)の「萬覚」と「駿河田中城中覚書」の中に、田中領分にあるものとして、”かつお節”の名称が残されています。これらの史実からみると焼津では、すでにそれより50年余早く”かつお節”の名称が用いられていたのです。
焼津鰹節は先人が土佐、薩摩、伊豆などの各地から優れた技術を取り入れて「焼津節」の改良型を完成させ、全国の標準型として統一されました。こうした先人、先達の努力によって焼津は原料鰹の一大水揚げ基地とともに、鰹節・削り節といった製品の一大生産地、集散地として全国をリードしてきました。このような背景から、鰹節が特許庁より地域ブランドとして認定されたのは全国でも当焼津地区の「焼津鰹節」のみであります。焼津鰹節水産加工業協同組合は昭和24年から、毎年11月23日に皇居で行われる新嘗祭には神饌用鰹節を宮中に献上しております。また、焼津鰹節を後世に伝承する目的で設立した焼津鰹節伝統技術研鑽会の製法技術が、平成17年3月、焼津市無形文化財第1号に指定されました。